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2017年5月19日 (金)

第371回

どんぶり派ですか、それとも炊く派ですか?

チキンラーメンの話なのだ。
ネタがなくなった時の「食い物ネタ」、しかもお手軽なラーメンの話。
違う違う、そんな軽い気持ちで書いてない、もっと真面目、真剣。
どちらかというと、ずっと温めていた話、
いつでも掲載できる準備はできていたが、
いい写真が撮れなかった。
で、今回ようやく納得できる写真が撮れたので記事にできるというわけ。
なんていっぱしのカメラマンみたいなことを言っているが。

その前に、ここでタイトルの「炊く派」に引っかかってる人がいるのではないだろうか、
もちろん「炊く」は標準的に使われていると思う、飯を炊く、とかで。
しかし、ことラーメン、しかもインスタントラーメンに「炊く」を使うのは、
おそらく関西圏だけだと思う。
「じゃまくさいから今日の昼飯はラーメン炊いとくねん」みたいに。
えっ?使わない?うそ、京都だけ?
京都でも使わない?じゃオレだけ?

始めます。

あなたはチキンラーメンを作るとき、
どんぶりに湯を注いで作りますか?
それとも鍋に入れて炊きますか?

Img_1614

インスタントラーメンの創出的傑作、チキンラーメン。
その栄光の歴史は簡単に語りつくせない。
ただ、チキンラーメンによって救われた人がどれほどいるかは、
想像に難くない。
そして、戦後間もないころに誕生したチキンラーメンが、
その後の日本の発展に寄り添いながら歩いてきたことは確かである。
もしノーベル賞にラーメン部門があるとするなら、
間違いなくその栄冠を手にしていたことだろう。

Img_1739

カップ麺以外で湯を注いでできるラーメンはチキンラーメン以外にない。
(たまにバッタもん的なのを見ることがあるが)
しかし、だからと言ってそのことに大きくこだわっているつもりはない。
それにパッケージの裏にはちゃんと「湯を注ぐ」と、
「煮る」(やっぱり炊くとは言わないようだ)の、
二通りの作り方が掲載されている。
それぞれの作り方で微妙に味が変わるのだが、それは好みの問題である。
今、問題にしているのはそこではなく、
表のパッケージになっている玉子をトッピングした写真だ。
チキンラーメンと玉子のコンビネーションは最強だと思う。
親子丼のごとく親子ラーメンになるからだ。
メーカーも玉子の落とし窪みを作るほどにアピールしている。
そしてこのパッケージの写真は何とも美味そうではないか。

ところが、この二通りの作り方、「注ぐ」も「煮る」も、
こんな風に美味そうに玉子が仕上がらないのである。
注ぐの場合、うっすらと膜は張るけれども、ほとんど透明に近い。
と言うことはその玉子は限りなく「生」だといえる。
この状態でもし、玉子の黄身を箸でつぶしてしまったら、
一気にラーメンの汁は茶わん蒸しの蒸す前みたいになる。
食えないことはないが、もうすでにチキンラーメンではなくなっているので、
食べることに意味を持たなくなる。
最近・テレビCMで作り方を紹介しているが、まぁー出来ないって。

煮るはもっと悲惨だ。
説明には鍋で1分煮る、とあるが、
その後に玉子を投入するとラーメン自体を煮すぎてしまう。
かといって、麺の塊と玉子を同時に入れると、麺をほぐすことができない。
ほぐれるまで煮込むと今度は玉子が固くなりすぎる。
さらに沸騰の波で白身が原型をとどめない。
透明なスープが売りだが、妙に濁ってしまう。
鍋からどんぶりに移す時も深刻だ。
最悪、麺の中に玉子が混ざってしまう、これではトッピングとは言えない。

さてどうする、
どうにもならないと簡単にあきらめてしまったら、負けたことになる。
しかしここで負けるわけにはいかない。
男には絶対に負けられない戦いがある。
そして、10年の歳月を費やし、とうとつベストな方法を見つけたので紹介したい。
完ぺきではないが、未来は見える。
あとは後任に任せてもいいだろう。

①どんぶりに麺を入れておく。

②玉子だけを炊く。火加減が重要、白身を壊さないこと。
Img_1615

③いい感じに炊けたら、玉子だけをトッピングする。
Img_1621

④新しい湯を注ぐ、玉子を煮た湯は使わない。
Img_1622

⑤ふたをして3分待つ。
Img_1623

⑥出来上がり。どうだ、透明度を保った汁に注目。
Img_1626

「炊く」と「注ぐ」のコンビネーションだが、
その手間がインスタントの精神に反している、とか言うなよ。

犬は咬む

来月、倶楽部のイベントで行うディスカッション、
テーマの「犬は咬む」についての議題を掲載します。
内容について関心が持てた人、意見がある人は、
ぜひともご参加いただけたらと思っています。
よろしくお願いします。

このブログでも数回取り上げていますし、
新聞やテレビでも取り上げられることが多いです。
また、出版物も多く出回っています。
それほど「犬が咬む」(以降「咬む」と表現します)問題は、
深刻で大きな問題です。
時折、ニュースでは悲惨な咬傷事故も報じられています。

犬が苦手な人のほとんどが咬むですし、
もし、犬たちが咬むから遠い存在だったら、
犬たちのこの社会におけるポジションはもっと違ったものになっていたでしょう。
ただ、それでいても何かにつけて、犬たちが重宝がられるのは、
その咬むをコントロールできるからですね。
ここがクマやライオンを飼うのとは大きく違うところです。
咬むをコントロールできないとしたら、
犬は檻の中で飼うことが常識となっているでしょう。
危険な問題を差し引いても、やはり人にはなくてはならない存在なのです。

よってディスカッションの目的は、咬む問題を無くすことではなく、
減らすことだと考えています。

咬む問題はなくならないのですか?
人は気質、姿形もモラルや倫理を通り越して、
神のごとく「犬の生」を支配下に置いているのに、
どうして大きな問題である咬むを解決しないのでしょうか。

これは大変厳しい質問です。しかし、とても重要な質問です。

理由は咬む気質が必要ということです。
警察犬や闘犬のことではありません。
事実、警察犬の咬むは攻撃ではなく遊びの範疇ですし、
闘犬はもはや時代にそぐわなくなっています。
一部の愛好者もやがてそのことに気づく時が来るでしょう。
そうではなく、犬は犬自身が自らを守るために咬む気質が必要で、
それを守ってやらなければならないのです。

世の中のすべての動物が犬を保護するとは限りません。
それに虫かごで一生を終わらせるわけにもいきません。
時にはほかの動物に襲われることもあるでしょう、
特に人間は厄介です、
その知恵で巧みに物を武器に変えてしまいますから。
それだけではありませんね、
精神的な威圧を与えたり、保護しなかったりしますし、
都合によっては合法的に殺戮も行います。
生き物の「生命」をもてあそぶことに、
喜びと優越感を持てるのが人間です。
そういったことから自分を守るために咬むは必要で、
そうではない人たちに咬む気質は守られてきました。
何とも皮肉な話ですが、
ここの事実をとらえないと、問題の解決には進みません。
咬む問題はなくなりませんし、
仮にブリーディングでもそこを目指してはいけません。
もちろん必要以上の攻撃性や容姿を追及してはいけませんが、
最低限の防衛力は必要なのです。

よって減らす、あるいはうまく付き合っていく、という考え方になります。

と、申しましても、
例えば、現実に起こっていることで、
わが子を飼い犬に咬み殺された人などは、
到底納得できるようなことではありませんね。
もちろん誰が悪い、などといったことでもなく、
やりきれないものが残っているのは想像に難くないです。
ただ、そういった方たちに配慮しながら話を進めることはしますが、
納得していただけるとは考えていませんし、
説得力も器も持ち合わせておりません。
そこのところはなにとぞご容赦ください。

続く。

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